コンサータを4年くらい服用してみて
もうだいぶ体が馴れたようで、かといって飲まないと動けないなどという事はなく、今は仕事の日は 54 mg を朝食後に服用しています。
この薬との付き合い方
飲みたくないときは飲まない(例えば休日やリラックスしたい日など
無理をするために使わない(過剰摂取しても具合が悪くなるだけでパフォーマンス改善には繋がりにくい気がします
緊張性頭痛などが出たらカイロプラクティックなどに通って姿勢を治すといくらか楽になる
絶望的な気分や焦燥感のあるときは飲まない(寝るのが一番
ちゃんと食事や水分を摂ること
※これは、あくまで私の場合であって、その他の人にとって有用かはわかりません。予めご了承ください。
リタリン騒動関連ページまとめ
厚生労働省の資料
厚生労働省:塩酸メチルフェニデート製剤(リタリン、コンサータ)の取扱いに関する関連通知等
リタリン錠「チバ」及び1%同散「チバ」(以下、「リタリン」という。)のうつ に係る効能については、薬事・食品衛生審議会の議論を経て、本日、その削除を 承認したところであるが、リタリンを服用している20歳代のうつ病の患者(女 性)が、今後、本剤を服用できなくなることを不安に感じ、自殺未遂を図ったと の情報がある。
上記サイトにて配布されている『塩酸メチルフェニデート製剤(リタリン、コンサータ)の取扱いに関する関連通知等』より抜粋。
医師による個人的な見解など
補足
なにか追加したい情報源などがあれば、コメントしてください。すぐに公開されます。
できるだけ、粗野な表現は避けてください。
コンサータを2年間飲み続けた感想
現在の1日の服用量は54mg、割と多めかもしれません。この量はここ1年間くらい変わっていません。
薬に体が慣れてきたのか、去年よりも薬の作用を苦痛と感じなくなりました。
服用を突然中断してもベンゾの様な離脱症状は生じません。私は最大5日間ほど連続して服用を中断した事がありますが、服用開始以前の様に落ち着きがなくなるだけで苦痛はありませんでした。
メリット
思考が冷静になる(頭の中に落ち着きを持てる)
適量を適切な用法で摂取している限りでは思考が落ち着き、パニックに陥る頻度が減ります。
ただし、過剰摂取をすると心拍数の上昇と焦燥感が生じ非常に苦しい思いをします。私は、この薬を過剰摂取することにより通常以上の集中力や思慮深さを期待して試してみた事があります。しかしその結果は期待とは裏腹にひどいものでした。
行動が理性的になる
薬を飲まないでいると、私の場合は自制心をなくす傾向にあると感じています。
例えば、深夜0時頃になると「そろそろ寝なければ」と思うのですが、薬を飲んでいない場合だとその時に集中してしまっている事を優先してしまい、下手をしたら朝までそれを続けている事があります。
少なくとも私にとってコンサータとは集中力を上げるため薬ではなく、集中力を制御するための薬なのだと最近では思うようになりました。
デメリット
薬の体感
薬に慣れて苦痛は感じなくなってきたものの、この薬が作用している間は独特の違和感を感じます。
何かに集中していれば気にならないのですが、自分の興味を惹くものが何もない時はこれを気にしてしまい何だか嫌です。
私の生活をとても助けてくれている薬なのでこの程度の違和感は気にすることではないのですが、やっぱり何だかあまり好きになれないです。
飲食について
集中力を制御することにはとても役立っています。
しかし、それは私の頭の中の”すべきことリスト”に挙がっている事柄についてのみ有効のようで、コンサータの食欲を減衰させる作用も相まってたまに食事をおざなりにしてしまいます。
忙しくなると「n時頃に食事を摂る」という意識が埋もれてしまい、日頃のペースを崩す一因にもなっている気がします。
この問題はアラームなどでタイミングを制御することで大方解決されました。
まとめ
去年に比べるとこざっぱりとした内容になりました。
2年間ほど服用を続けた限りでは、特に何の問題も生じていません。これからも服用は継続する方針です。問題が生じたらその内容は記載します。
舛添要一 リタリンに”麻薬”という汚名を着せ、2007年10月23日から2013年12月10日まで発達障害者の社会生活を脅かした”元・厚生労働省大臣”
舛添要一が辞任したこと大変喜ばしく思います。
一人の発達障害者として、”舛添要一”という為政者について思うところを書き連ねようと思います。
私が舛添要一を嫌悪している理由
処方箋を詐取しリタリン(メチルフェニデート)をかき集めて乱用する変質者の増加を理由に、2007年10月に厚生労働省はリタリンの適応症から”うつ病”と”成人の発達障害”を除外しました。
私はこの事件が起きた原因はリタリンという薬そのものではなく、同一人物があちこちの病院から処方箋をかき集めて必要以上に処方薬を入手できてしまう事にあると考えています。
そして今現在でも同様の手口で処方薬をかき集める事は可能のままだと思われます。この問題を解消しない限り、他の薬でも同様の事件が起こりかねません。
リタリンやコンサータなどメチルフェニデートを含む医薬品の流通は厳重に管理されているそうですが、本当にこのままで良いのか疑問です。
http://members.jcom.home.ne.jp/yutamana/contents/etc/yosinasi/yutanokoto/yuta1.html
この判断は日本国憲法第25条を無視し、2007年10月23日から2013年12月10日までの間、18歳以降に”発達障害”と診断された人を適切な薬の恩恵から切り捨て続けました。
当時の”発達障害”に対する世間の認識は現在よりも遥かに辛辣で無関心でした。
このアンサイクロペディアの記事の「国内でのADHD」という記事に当時の様相がとても簡潔かつ的確に記載されているので紹介します。アンサイクロペディアから引用などとふざけていると思われるかもしれないですが、これは真実です。
http://ja.uncyclopedia.info/wiki/注意欠陥・多動性障害
日本政府は成人のADHDに対してその存在すら認めすらしないという、一貫して「さっさと死ね!!」という大変ありがたい実に素晴らしい対応をなさっている。専門家が少なく、薬も治療法もないのに時間厳守で締め切り厳守、空気を読まないと生きていけない日本社会でADHDが生きていくのは大変な困難を伴い、ゆくゆくは首をつるか、服毒するか、豆腐の角に頭ぶつけるかして死ぬしかないのである。それが日本政府からのありがたいメッセージである。 アニメではのだめをはじめとして日本人でありながらADHDキャラクターが多く見られるが、作品内では幸せそうに見える彼女達も成人後ゆくゆくは日本政府の推奨する自☆殺をするのであろう。南無。日本におけるADHDへの対応は台湾や韓国どころか、まさかのイスラエルやタイよりも劣っているという素晴らしい現状である。先進国のなかでも独自の姿勢を貫き通しているのだろう。実に素晴らしい。
こんな世相の中、切り捨てられた発達障害・精神病疾患者は一体どの様な気持ちで日々を送ったでしょうか。
リタリン騒動の共犯者は厚生労働省の関係者や毎日新聞社を筆頭にしたマスメディアの関係者など他にも多くいます。
そのほとんどが罪の意識もなく現在も息をしていることでしょう。舛添もこの件については記憶すら持ち合わせていないでしょう。
厚生労働省への不信感
舛添が大臣で亡くなった以降も厚生労働省という省庁からの発表には違和感を感じることが多いです。
厚生労働省という省庁の任務は
国民生活の保障及び向上を図り、並びに経済の発展に寄与するため、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進並びに労働条件その他の労働者の働く環境の整備及び職業の確保を図ることを任務とする
とありますが、リタリン騒動の時の判断がこの”任務”とやらに沿っていたとは到底思えません。
成人の発達障害者は存在しないという暴力的な見解を公的機関が示してしまった事による禍根は今現在にも非常に大きく残っています。
厚生労働省は精神科医の診療報酬に妙な制約を設けるなど、医学的な根拠などに基づいた判断というより、何らかの外圧や雰囲気や都合によって場当たり的な判断をしている様に思えます。
医師ではない公務員が治療方針になぜ口を出せるのかそもそも疑問です。医師免許をもった役人もいるのでしょうが公平な判断とは思えません。
適切か否かは成分と適応ごとにガイドラインに従うべきではないのでしょうか。それ以外の規則などわざわざ設ける必要があるのでしょうか?
他にも医薬品のインターネット通販を規制しようとしたり、学校の授業でおなじみの”ダメ、絶対”(http://www.dapc.or.jp/info/r.htm)など半世紀以上前のプロパカンダを医学的根拠のある情報として掲げていたりなど見るに耐えません。
もし、この"ダメ、絶対"の内容が真実であればグリーンラッシュに湧くアメリカは未曾有の大麻汚染にさらされ荒廃しているはずですが、そんな事はないようです。
大麻による税収はすでに酒税を上回っているそうです。それだけの量が流通しているにも関わらず過剰摂取による死亡事故のニュースもなく、展示会も兼ねたお祭りや、ワインやウィスキーと同様に品評会まで催されているとの事です。もう、どちらが嘘つきかは明白です。
大麻を取り締まることによって守られているのは国民の生活でも健康でも経済でもなく、非合法組織の収入源です。
自分が感じた違和感について調べれば調べるほど不信感が募ります。”類は友を呼ぶ”の法則で厚生労働省の内部も腐敗しているのではないかと不安になります。
最後に
規則を逸脱していなければ適切だ、という発想は今回舛添が糾弾された理由のひとつです。
この発想が正当性を持つためは規則が適切に設定されている事が大前提となります。
公務に私利を持ち込み、公利そっちのけで遊んでいる事を政治資金規正法を盾に正当化していた舛添要一は典型なアンチパターンです。
ザル法を盾に正当性を主張したところで、そんなもの納得されるはずもありません。裸の王様になるのがオチです。
昨今ではこのような駄々をこねる"大人"が多く、何を根拠に何を思いながら何をしたくて、そんな見るからにインチキな神輿を神妙な馬鹿面でなぜ担いでいるのかと見ていて呆れてしまいます。
もう少しマシな世の中になることを切に願わずにはいられません。本当に。
余裕がないことが諸悪の根源
いろんな側面で余裕があれば、もっと人が生きやすい世の中になるんじゃないかと。
5人が120%のパフォーマンスで働くより、20人くらいが30%くらいのパフォーマンスで働いて、各自が余暇に60%のパフォーマンスを費やした方が社会的に有益な結果に繋がる気がするんだけど気のせいかな。
会社は自社に提供される労働力にしか興味がないのは仕方ないけど、必須要素の一つに”文化”というものが存在している”国”という単位では無視してはいけない気がする。
”アニメ”が”サブカルチャー”の代名詞になりつつあるこの国。
それを悪い事と言う気は毛頭ないけれど、これは世間体と目先の利益ばかりに固執してきた”貧乏性”が招いた一つの結果であると私は思っている。
もしもっと人の感性や娯楽などを許容し尊重していたら、この通信インフラが過剰なまでに整ったこの国のサブカルチャーはもっと多様なものになっていたはずだ。
古い世代の価値基準の最後の役目は”潔く淘汰されること”だと私は思っている。
社会というものは下の世代が上の世代を上回らないと成り立たないものなので、既得権益を理由に下の世代の育成を阻むのであれば、それは社会から抹殺されるべき社会悪なのだと私は考えている。
安心して”挑戦”と”淘汰されること”ができる社会こそ、一側面では理想的なのかもしれない。
私が26年間ほど誤解していたこと
- 人という動物は社会(人との関わり)を形成する習性を持つ
- 理屈は目的のための道具でしかない(それ以上でもそれ以下でもない)
1 の習性が人間の言動の主な基準になる。習性ゆえ合理的でないこともある。
2人間にとって理屈は正義でもなんでもなく思考方法の一つ(道具)でしかない(理屈は通っていれば、理屈の上では正しい。しかし人間はときに理屈の上で生きていない。)
私は人間は理性的な動物なのだとずっと思い込んでいた。しかし、正しくは理性という道具”も”使える動物だった。
この認識も正しいかどうか定かではないけれど、なぜ今までこんな簡単なことに気付けなかったのか非常に疑問で自分に不信感がある。
この認識であれば、少なくとも多くの事柄が腑に落ちるので悲しむこともなくなる。かもしれない。
コンサータは起床直後に飲みたくない
コンサータを起床から30分以内に飲むとなんとなく具合が良くない。
食事を済ませた上で起床から1-2時間くらいのタイミングで服用するのが個人的には良いと思っている。