developmental disorder diary

24歳で発達障害が判明した人間による雑記です。感情的な痛みの訴求ではなく、なるべくどうしたら良いかを考えていこうと思います。生きづらいけど。追記:「Developmental Disorder:発達障害」よりも「Autistic Spectrum Disorder:自閉スペクトラム症」という呼称がより適切でした。

私が26年間ほど誤解していたこと

  1. 人という動物は社会(人との関わり)を形成する習性を持つ
  2. 理屈は目的のための道具でしかない(それ以上でもそれ以下でもない)

1 の習性が人間の言動の主な基準になる。習性ゆえ合理的でないこともある。

2人間にとって理屈は正義でもなんでもなく思考方法の一つ(道具)でしかない(理屈は通っていれば、理屈の上では正しい。しかし人間はときに理屈の上で生きていない。)

私は人間は理性的な動物なのだとずっと思い込んでいた。しかし、正しくは理性という道具”も”使える動物だった。

この認識も正しいかどうか定かではないけれど、なぜ今までこんな簡単なことに気付けなかったのか非常に疑問で自分に不信感がある。

この認識であれば、少なくとも多くの事柄が腑に落ちるので悲しむこともなくなる。かもしれない。

ジアゼパム

ここのところ体が過緊張気味でかつ不眠の傾向もありだいぶ疲弊しているので、久しぶりにジアゼパムを飲む。とてもよく効く。

私は鎮静剤の中ではこのジアゼパムが一番気に入っている。

デパスは不快感に対する万能薬という印象に対して、ジアゼパムは持続性の長い鎮静剤という印象。

デパスの鎮静効果の体感は少し無機質で半ば強制的だが、ジアセパムは落ち着く。

ただ、ジアゼパムの離脱はデパスの比にならない気がしている。この薬の有用性には頼りきらない方が良さそう。

犬が死んでしまった

飼っていた犬が死んでしまった。

拾った犬なので年齢は推定16歳前後、日に日に弱っていくのが見て取れた。

医者に連れて行った翌日に、私が会社に行っている間に死んでしまった、虫のしらせなのかその日に社員証の紐が切れた。

私もいずれこうなるのであろうと、生き物であったことあることが悲しくなった。

懐かしい思い出を振り返った、彼は元気でひょうきんだった。私より先に死んでしまうのは仕方ないことと理解はできるけれど違和感があった。

火葬業者に電話をしたら明日の引き取りが決まった。あっけなく淡々と生き物は生きて死んでしまう。

いろいろなものが味気なく感じてしまう。味気あるというのはどういう状態だったろうか。味があるということだろうか。意味というのは意の味だろうか、頭がうまくまわってくれない。

人間が生きる上で、精神衛生を保つために必要なのは見出すことだろうか。

卑屈の連鎖

理不尽に応えないと自分の居場所がなくなる、と怯える人が多い。

理不尽な思いをするのが当人だけであれば良いけれど、それらが理不尽な環境となって次の世代を脅かす。

カビの生えた現状の維持なんて無理心中に等しい。

どちらかといえば善人に部類されるのに、大人とは言いたくない大人が多すぎて惨め。強くならないといけない。

インターネットに限らず、何かを呪って怒ることを目的にした道具なんてあるわけない。正しい使い方というと語弊があるけど、それに近いものはあるはず。

倫理観の構成要素と用途

倫理観

構成要素

  • 経験
  • 知識
  • 論理
  • 情緒

以下の用途には適しておりません

  • 正当性の主張
  • 恫喝・脅迫
  • 他人に求めること
  • 普遍的であること

ゆいいつ適している用途

  • 自省

空想に耽る教育者

児童4人が骨折をしたニュースが発端となり、ここ最近では”組体操”が話題になっている。

私はこの”組体操”を肯定する、もとい独り善がりな思い込みと自己満足のために児童を危険に晒すことを肯定する人たちが不愉快で仕方ない。

上記の様な人たちは一度自身の骨を折ってみたら良い。指先じゃない腕や脚や胸郭骨をだ。

怪我をした時の痛みと、傷が癒えるまでの苦痛をしかと噛締めた上で、子供が同じ思いしたらどんな気持ちになるか考えてみたら良い。

子供にとっての数ヶ月前は、大人の数年間に近い。この間、邪魔なギプスや痛みに自身の行動を制限されることも考えたら良い。

よく「子供だからすぐに治る。」などと子供の怪我を軽視する大人もいるが、大人にとっての”すぐ”が必ずしも子供にとって”すぐ”ではない事も理解すべきだ。

更に骨折の箇所や度合いによっては手術が必要になる場合もある。一生消えない傷痕が残ることもある。大好きなスポーツができなくなることもある。

これらを踏まえた上で、「怪我をすることも経験だ、教育だ。」などと言えるのだろうか。

自発的な行動で怪我をしたのであれば、子供も何かしらを学ぶかもしれない。

しかし、誰かに強制させられた行動で怪我をしたとしたらどうだろうか、少なくとも私だったらまず猜疑心や敵意を抱く。もしかしたら教育陣もそれなりの報復を受けるかもしれない。

もし、もっと大人しく優しい子供だったら、痛みや理不尽を我慢し「自分が弱いのが悪かった。自分が耐えられなかったせいで他の子も怪我をした。」と自責の念を抱くかもしれない。

莫大な費用を掛けて大学へ行ったにも関わらず、子供相手にクダを巻いて精神論を振りかざしている様な奴が教師として収入を得ている様を私は知っている。

おそらく下記の記事の小学校の教師も同様である。「それでも私が組体操に取り組む理由。」と題してあるが、組体操に取り組んでいるのは生徒たちであり教員ではない。

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下らない思い込みと空想に他人を巻き込んで悦に浸るのも、自分がしたこともない事を他人に強いるのも、人間としてやっていけない事だと理解し、なるべく生徒に関わらない様に教員生活を送り、可能であれば教職を辞する事こそ児童の将来にとって有益なのだと私は確信しております。